神道・神社コラム
神道は覚えるものではなく感じ取るもの
神道は覚えるものではなく感じ取るもの
全国講話に回るとよくこんな質問を頂きます。
『神道の勉強はどうやって行ったんですか?どんな本を読まれたんですか?』
実は私は神道を研究するにあたり、古事記は読んでいましたが、後は事実を確認するのみでそんなに多くの本を読んだわけではありません。
なぜなら神道とは覚えるものではなく、感じ取るものだと思っているからです。
人に『神様を信じますか?』と聞くと『信じません』と答える人がいます。
理由を聞くと『見えないから』と話すのです。
そうです。
神様とは見たり読んだりするものではなく『感じるもの』なのです。
だから、人それぞれの答えは違う物で私自身、今出す答えと、10年前の答えとは異なるものになります。
感じるためにはやはり、神社に足を運ぶことではないのでしょうか。
その中で色々な事を感じることが出来ます。
感謝を言っている自分の姿と日常のギャップに悩んだり、
何時もカッコつけてるのに、作法のひとつも知らなかったり
人の為だと言いながら、気にくわないことに心奪われている自分がいたり
いつも偉そうなこと言っているのに、目の前でキチンと正座をして足を崩さないお婆さんを見ながら、足をモゾモゾしている自分がいたり
全て同じ環境を与えられているのに、足りない自分と出会います。
そのうち作法を覚えると背筋がスッと通り、堂々と立ち振る舞えるようになります。
さらに、人の振り見て答えを見つけ始める。
おそらく、この文章を読みながら皆さんも同じような事を感じているのではないのでしょうか?
私はここで暗記させる様な事は言いません。
皆さんが共に感じてくれるきっかけになればと思っているのです。
だから、答えは違って良いのです。
なぜなら、感じて考えると言うことは既に一歩踏み出しているからです。
私の文章を見て『これって違うんじゃない!』と思ってるコメントを入れる人がたまにいます。
それこそ、その人が感じていることなのです。
その感じた事で、考えるきっかけになればひとつの成果と言えます。
神様と感謝は良く似ています。
感謝とは考えるものではない、感じ取るものです。
神様も同様、考えるものではない、感じ取るものなのです。