神道・神社コラム

神道とは?
世界には様々な宗教が存在する。
その宗教の教えにより精神が養われる。
しかし、日本にはこれといった宗教がない。
では、日本には精神はないのかと言えばそうではない。
これは世界の常識からすれば何とも理解しがたい。
人を束ねる教えはないのに、人と人とが協力し合い、一人一人が誇り高く生きている。
また、己に非あらば自らの責任を取り、腹を裂き切腹する。
なぜこの様な事が出来るのか?
日本には教えはないが様々な【道】が存在する。
茶道、華道、書道、柔道、剣道、弓道、武士道。
その道中でもがき苦しみ答えを見つけながら身につけるもの、それが道徳である。
だから、昔の人は仕事は盗めといい教える事はしなかった。
つまり、教える事はせず自らが行ってその姿を見せ学ばせていたのである。
教育とは教えると育てるがある。
子供に対して『よく育ったね』と言うが『よく教えたね』とは言わない。
これは子供の躾にも共通する。
こんな言葉を耳にする。
『優しくしなさい‼︎』
言葉は優しくしなさいだが、その親の態度は厳しい。
子供は親の言葉を聞いているだろうか?
それとも親の態度を見ているだろうか?
子供は言った様にやらない、やってる様にやるという。
躾とは押し付ける事ではなく、己が律する事である。
この様に、苦しみながら自らが答えを見つけ、身につける事を美学とした。
華道も単に花を生け、他の生け花と競い合うものではなく自然との調和の中で美を追求する。
また、茶道もお茶を点てるだけではなく、【和敬静寂】の侘び寂びを見つめ直し、己を高める内観の場として存在する。
武道もただ強くなれば良いというものではなく、礼と忠義を試す場として己と向き合い心技体を鍛え上げた。
それぞれの道は違えども、辿り着く中心は皆同じ場所である。
そのたどり着く場所、それが【神道】である。
神道には教義も経典も哲学もない。
つまり、曖昧なのである。
なぜその曖昧を良しとしたのか?
昔から祖先はこの世に完全無欠など存在しない事を知っていた。
出来ては壊れ、また出来ては壊れて新陳代謝が行われる。
つまり、一丁上がりは終わりを意味する事を知っていた。
だから、三歩進んで二歩下がって来たのである。
そうやって過ちを認めながら一歩ずつ進む。
その過ちの中で人と人とが繋がり強調する事を身につけた。
誰が正しいわけでもなく、皆で話し合いながら物事を決める。
これが和の精神である。
聖徳太子が作った17条憲法第1条。
【和を以って貴しと為す】とは仲良くしなさいという事ではない。
やわらぐ環境を整えて皆で議論を重ねて物事を決めなさいという事なのだ。
さらにこうも言う。
『人の話を聞かないものは愚人で自分は聖人である』と思っている。
しかし聖徳太子は、【互いに凡人に過ぎない】と言っている。
『だから、意見が違うのは当たり前。決して物事を一人で決めてはいけない。皆で話し合いながら決める事が大切である』
つまり、一人で物事を決める事こそ和を乱す行為だと言っているのだ。
初代神武天皇がこんな事を言っている。
【自らが正しい事を行って、その心を広めてこの国を守りたい】と…
つまり、正しいと思う事は人それぞれ。
だからそれぞれが正しいと思う事をやりなさい。
その【正しいと思う心】を広げたいと言っているのだ。
正しい事を国民に押し付け、自分は贅に酔いしれる。
そんな事はしなかった。
自らが模範となり、その姿で示し、我が国を守ってきたのである。
その姿は我々の会社でも家庭でも同じ事が言える。
日本の伝統文化の全てにこの精神が宿っている。
この事を知り、この事を実践出来てこそ、組織は豊かになり繁栄する。
それが組織の中心に座る真の姿なのである。