神道・神社コラム

人も自然の一部に過ぎない
あの山は動くのか?風林火山にあるように『動かざること山の如し』
しかし、それはひとりの人間が生きている時間の話。山は長い時間をかけて動いている。
だから、人は自分が生きている間になんとかしようと焦る。
また、気にくわないことを今すぐに変えようとするのだ。
その感情こそが【自我】である。
また、作物を貪る虫は悪そのものである。
しかし、植物が交配を進めるには虫は善なる存在になる。
人にとって悪でも、自然界にとっては善なる存在なのだ。
つまり、悪は人によって作られ、自然界では人の悪も善に変わる。
この事から分かるように、人は矛盾を抱えながら生きている。
但し、そこには【大いなる力】が存在している。
近年、中国に台風が行くようになった。
それはなぜだろう?
それは自然の理に逆らい大気を汚染しているからである。
地球にとってはそれは癌の腫瘍のようなもの。
取り除かなければならない。
だから、台風によって腫瘍を取り除いているのだ。
それでも、言うことを聞かなければ、さらなる災いをもたらし、地震や洪水といったもので根源を絶とうとする。
自然界に意思はないと思っているのは人間だけ。
あなた自身も自分の意思ではどうしようもないことがる。
さぁ、心臓を止めてください。
自分の意思とは関係なく心臓は動く。
この様に人間も自然の一部。
私たちの中にもこの様に大いなる力が働いている。
苦楽は表裏一体だと言う。
苦があればその先に楽があり、楽すればその先に苦がある。
自分の悪を認めず、善を主張し続ければ苦はいつまでも続き、悩み続けなければならない。
人は何もないのに指摘したりはしない。
何かあるから指摘するのだ。
その何かが変わらなければ、人はずっとその感情に囚われる。
それと同じように、自分が当事者であれば、非を認め改めなければ自然界はさらなる試練を与える。
神道では天の恵みによって私達は与えられていると考えていた。
だから、災害に見舞われた時だけではなく、いかなる時も初詣や参拝に行き感謝を届けた。
また、これは義務でも責任でもない。
なぜか、気づけばそこに立っているのだ。
日本には様々な祭日があるが、名の如く祭事する日である。
そのほとんどが神道の祭事に関係している。
この様に私達は理解できない【大いなる力】の存在によって善がもたらされ、その善に感謝する姿が、善なる善を引き寄せることに繋がるのかもしれない。