【文化の日は明治天皇の誕生日】

【文化の日は明治天皇の誕生日】

本日文化日は明治天皇の誕生日です。

明治維新による激動の時代を生きた明治天皇。

日本を省長するのにふさわしい明治維新は世界的に類を見ない血を流さなかった異色の無血開城それが明治維新なのてます。

革命とは既存の支配階級に不満を抱き、民が立ち上がことで打ち壊すのが世の常ですが、明治維新は支配階級だった武士たちが自らの手で革命を起こしました。

それは、自らを否定し律する行為だったのです。

その立役者が長州、薩摩土佐だったのれす。

これまで、明治維新の歴史は幕府が取り壊されるまでにスポットが当たりがちですが、実は幕府が取り壊された後の方が実にドラマチックの興味深い。

これまで世襲性によって政治や武士の支配階級が決まていたが、明治以降は試験によって優秀な人材が都用されるようになりました。

ここで考えてもらいたい。

これまで当然のように息子が重要なポストにつき、家門を守ってきたのにの息子がポストから外れるのです。

世の権力者はどう思うだろうか?さらに徴兵制により、武士がいられるなくなりました。

名門の道場もいらなくなったのです。

さらに話は息子の話に留まりませんでした。

明治維新以降中央政権の確立を目指していた明治政府でしたが滅びたのは徳川幕府であり、300余りの各庵がはそのまま残されていたのです。

いわば300の国の集合体に過ぎず政府はなんの権利もなく、税の徴収すら出来ませんでした。

そこで政府は藩の領地を国に変換させる大政奉還なる【版籍奉還】を行ったのです。

これは大変な事です。

それまで地域を支配していた大名から権利を没収するのですから時の権力者が黙っているわけはない。

しかし、ここで反発が起こらなかったというのです。

なぜなら大名はそまま【知藩事】に任命されたからです。

しかし、この知藩事は長くは続きませんでした。

政府はさらに【背反置県】を打ち出します。

廃藩置県とは知藩事を免職させ、現在の都道府県を設けるものでした。

さらにそれだけではありません。

知藩事が、免職させられるとそこにいた藩士達を大量失業させる事に繋がるのです。

現代で言うと日産にゴーンさんがやって来て大量リストラ、工場閉鎖を行った厚意と良く似ています。

さすがにこれには反発が起こると考えた長州、薩摩、土佐の三藩は一万人の兵を用意していましたが、この結末も意外なものでした。ほとんどの知藩事はこれを受け入れたのです。

なぜ、反発が起こらなかったのか?そこには天皇の存在がありました。

廃藩置県の前に行われた版籍奉還では大政奉還に見習い、各藩主が自主的に『版籍奉還しむす』と申したて、天皇へ変換したのです。廃藩置県では事前に政府から通知文が送られました。

『知藩事の政務鑑査したところ、実績を挙げていない者が多い。

天皇陛下はこの状況を非常に嘆いているため政府は知藩事全員を免職し、その管轄地を県とする』流石に勤皇を掲げ江戸幕府を倒した藩主たち。

天皇の名を出されれば大名に大義明文はありませんでした。これで藩が領地から徴収していた税金は全て政府が国運営に当てることが出来たのです。

一方藩の借金も国が肩代わりしました。

当時は藩も財政難困っており、これを好都合とする藩もあったそうです。

ここでは壮絶な駆け引きがあったことは想像できます。

また日本らしい一面がありました。

それは明治政府の中心を担っていた、明治維新の立役者である長州、薩摩、土佐などもこの改革を受け入れたのです。

明治維新の立役者で勝者でもあり、本来なら優遇される立場てありながらこれらを受け入れ、痛み分けし、自分達の特権すら作らなかったのです。

他の藩もこれに続かないわけにはいきまん。

しかしながら一般の武士たちも事情は違っていたのです。

武士の特権を廃止する法律を作り武士の地位は著しく定価さらに武士の商標だった帯刀を禁止する廃刀令が施行され武士の不満は頂点に達します。

明治維新の功績は自分達にあるとう自負があった彼らは虐げられ戦へと。

それが西南戦争です。

西郷率いる反乱軍2万と政府軍9万でした。

この戦いが【ラストサムライ】のモデルになているのです。

歴史を知れば知るるど日本の素晴らしさが身に沁みます。

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